路面電車の敷石、城の盛り土、被爆ピアノ——広島の「残りもの」が語り始めるとき、仕組みが人を支える
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約1,000個の敷石が、場所を変えて道になった
広島の街を歩いていて、ふと足元の石が気になることがある。路面電車の軌道に敷かれていた御影石——車両と乗客の重みを何十年も受け止めてきたその石が、役目を終えたあと、どこへ行くのか。多くの場合、答えは「廃棄」だ。けれど広島では、少し違うことが起きた。
広島電鉄の軌道改修に伴って撤去された敷石、約1,000個が、広島東照宮の参道脇の小道に再び敷かれた。電車が走る道から、人が歩く道へ。用途が変わっても、石そのものは同じ石だ。ただ、置かれる場所が変わることで、石の持つ時間の厚みが——つまり広島の街を支えてきた年月が——別の文脈で立ち上がる。
広島東照宮は、広島藩主・浅野光晟が1648年に造営した社で、原爆により本殿を焼失しながらも唐門や手水舎など一部の建造物が残った。被爆建造物としての静かな存在感を持つこの場所に、同じく広島の地面を支えてきた石が加わる。ここには「捨てない」という判断と、「どこに置き直すか」という設計の両方がある。素材の再利用という環境面の意義はもちろんだが、注目したいのは、受け入れ先との文脈の噛み合わせだ。路面電車の石が、被爆建造物のある神社の地面になる——その組み合わせは偶然ではなく、広島という土地の時間を重ねる意思がなければ成立しない。
天守台の下に、400年前の「意図」が埋まっていた
もうひとつ、足元の話をしたい。広島城の天守台である。
広島城は1589年、毛利輝元によって築城が始まった(毛利元就の孫にあたる)。太田川のデルタ地帯という低湿地に城を構えるにあたり、地盤の問題は当初から避けられなかったはずだ。近年の発掘調査で、天守台が自然地形ではなく人為的な盛り土によって形成されていたことが改めて確認された。地表から約2〜3メートルにわたる盛り土層が検出され、その中には当時の生活痕を示す遺物も含まれていたという。
この発見が示すのは、城の高さが「結果」ではなく「設計」だったということだ。低い土地に高い建造物を置くために、まず地面そのものをつくる。防御の意図か、威圧の演出か、あるいはその両方か——いずれにせよ、400年以上前の築城者たちが地面の下に仕込んだ構造が、いま掘り返されて読み解かれている。
なお、広島城の天守閣は1945年の原爆で倒壊し、現在の天守閣は1958年に鉄筋コンクリートで外観復元されたものだ。つまり地上の建物は「再建」だが、その足元の盛り土は築城当時のものが残っている。見えているものと、見えていないものの時間の層が違う。広島城が「単なる観光スポット」として消費されがちな現状に対して、この発掘は静かだが確実な問い直しになる。世界遺産である原爆ドームや厳島神社の陰に隠れやすいこの城が、地面の下から自らの来歴を語り始めたようにも見える。
15人が交代で弾く。ピアノが「場」になる仕組み
敷石は場所を変え、盛り土は時間を超えて発見された。では、音はどうか。
広島市内の公民館で、被爆ピアノを住民15人が交代で演奏する取り組みが続いている。被爆ピアノとは、1945年8月6日の原爆投下時に爆心地から一定の範囲内にあり、損傷を受けながらも修復されたピアノのことだ。調律師・矢川光則氏が数十年にわたって被爆ピアノの修復・保存に取り組んできたことは広く知られているが、ここで注目したいのは、ピアノそのものの来歴よりも、「15人が交代で弾く」という仕組みの方だ。
一人の名演奏家が弾くのではない。地域の住民が、それぞれの技量で、順番に鍵盤に触れる。上手い人もいれば、たどたどしい人もいるだろう。けれど、交代で弾くという形式が、ピアノを「聴くもの」から「関わるもの」に変えている。演奏者が15人いるということは、少なくとも15の家庭がこのピアノとの接点を持つということだ。その家族や友人を含めれば、ピアノの存在を「自分ごと」として感じる人の数はさらに広がる。
ここに、個人の善意や使命感だけに頼らない継承の仕組みがある。一人が背負えば、その人が離れたとき途切れる。15人で回せば、誰かが抜けても続く。被爆の記憶を「語り継ぐ」という行為が、講演や展示だけでなく、「順番に弾く」という身体的な参加によって支えられている。音楽の力、という言い方は少し大きすぎるかもしれない。けれど、鍵盤に触れた指先が覚えている感触は、聞いた話より長く残る——そういう種類の記憶の渡し方がここにはある。
ラッピング電車という「表」と、残りものという「裏」
2025年、広島では原爆ドームと厳島神社の世界遺産登録30周年を記念したラッピング電車の運行が始まった。車体に描かれた二つの世界遺産のデザインは華やかで、SNSでも多くの写真が共有されている。祝祭としての広島——それ自体を否定する理由はどこにもない。
ただ、この記事で取り上げた三つの出来事は、いずれもその祝祭の裏側にある。ラッピング電車が走る軌道から外された敷石。世界遺産の影に隠れがちな広島城の地中の構造。そして、式典のステージではなく公民館で静かに鳴る被爆ピアノ。どれも派手ではない。けれど、どれも「残りもの」を捨てずに、別の場所・別の文脈に置き直すことで、新しい意味を発生させている。
ここに共通するのは、「残す」という判断と「置き直す」という設計が、セットで機能しているという点だ。石を残しても、置く場所がなければ倉庫に眠るだけだ。ピアノを修復しても、弾く人がいなければ沈黙したままだ。盛り土を発見しても、その意味を読み解く研究がなければデータで終わる。「残す」だけでは足りない。「誰が、どこで、どう使い直すか」という仕組みがあって初めて、残りものは語り始める。
これは誰を楽にするか
最後に、少しだけ視点を変えたい。
これらの取り組みは、「歴史を守る」という大きな物語の中に位置づけられがちだ。もちろんそれは間違いではない。けれど、もう少し手前の問いとして——「これは誰を楽にするか」を考えてみる。
敷石の再利用は、廃棄コストと新規調達コストの両方を抑える。神社側は参道整備の資材を得る。交代演奏の仕組みは、「被爆の記憶を一人で背負わなくていい」という安堵を15人に分配する。発掘調査の成果は、広島城の文化財としての価値を裏付け、今後の保存計画に根拠を与える。
どれも、誰かの負担を軽くしている。そして、負担が軽くなるから続く。続くから、次の世代に届く。持続可能性という言葉が大きすぎるなら、こう言い換えてもいい——「無理なく回る仕組みがあるから、残りものは語り続けられる」。
広島の地面の下に、音の中に、石の並びの中に、この街が経てきた時間が折り畳まれている。それを開くのは、大きな声ではなく、小さな段取りの積み重ねだ。敷石を運ぶ手、盛り土を掘る手、鍵盤に触れる指先——その一つひとつが、残りものに新しい居場所をつくっている。
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JA
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