採石場跡の音楽祭・尾道の廃校ピアノ・西城秀樹フィルムコンサート——「使われなくなった箱」に音を入れる人たち

高さ約60メートルの岩壁に囲まれた採石場跡で、音が鳴る。尾道の廃校体育館で、スタインウェイが響く。スクリーンの中の西城秀樹が、広島のステージに帰ってくる——。 広島県内で、もともと音楽のために作られたわけではない空間に音を入れる動きが、少

By Rei

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高さ約60メートルの岩壁に囲まれた採石場跡で、音が鳴る。尾道の廃校体育館で、スタインウェイが響く。スクリーンの中の西城秀樹が、広島のステージに帰ってくる——。

広島県内で、もともと音楽のために作られたわけではない空間に音を入れる動きが、少しずつ、しかし確実に重なり始めている。採石場跡、旧小学校、フィルムコンサートの会場。用途を終えた「箱」に音楽を持ち込む人たちがいる。彼らが再起動させているのは、場所だけではない。

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岩壁が反響板になる——呉市倉橋・採石場跡の音楽祭

呉市倉橋町の採石場跡地。ここはかつて「議院石」と呼ばれる花崗岩が切り出され、国会議事堂の外壁にも使われた場所だ。採掘が終わり、残されたのは高さ約60メートルの垂直に近い岩壁と、静寂だった。

その岩壁が、天然の反響板として機能することに気づいた人たちがいた。今年で4回目を迎えた音楽祭は、この地形そのものを「ホール」に見立てる試みだ。ステージは岩壁の足元に組まれ、客席は斜面に沿って広がる。PAの出力を抑えても、岩に当たった音が自然に返ってくる。「音響設計をしたわけじゃないのに、残響が約2秒ある」と運営スタッフは語る。コンサートホールの設計で理想とされる数値に近い。

注目すべきは、この音楽祭を支える仕組みの方だ。運営費用は主にクラウドファンディングで賄われ、昨年は目標の250万円に対して約300万円が集まった。支援者の約4割が倉橋町外からの参加者だったという。会場設営、駐車場の誘導、飲食の提供——運営の大部分は地元のボランティアが担う。漁協の関係者が駐車場を仕切り、元採石業者が安全管理を引き受ける。かつてこの場所で働いていた人たちが、別の形で同じ場所に関わり続けている。

「活性化」という言葉で片づけると見えなくなるものがある。ここで起きているのは、場所と人の関係が書き換わる過程だ。石を切り出す場所だった空間が、音を受け止める場所になる。その転換を可能にしているのは、地形の偶然と、それを面白がれる人たちの存在だった。

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スタインウェイが体育館に置かれるということ——尾道・旧久保小学校

尾道市の旧久保小学校。2018年に閉校となったこの学校の体育館で、ピアノコンサートが開かれている。

体育館にスタインウェイのフルコンサートグランドピアノを持ち込む——この一文だけで、少し異様な光景が浮かぶ。スタインウェイのフルコンサートモデルは全長約2.7メートル、重量は約480キロ。本来はコンサートホールの舞台に据えられる楽器だ。それを、バスケットコートのラインがまだ残る体育館の床に置く。

演奏したのはロシア出身のピアニストで、天井の高い体育館の空間を活かしたプログラムが組まれた。木造の梁がむき出しになった天井に音が上がり、拡散して降りてくる。ホールとは違う、少し荒い響きがある。その「荒さ」が、かえって音楽を生々しくする。ある来場者は「コンサートホールより緊張感があった」と話した。壁一枚の向こうに校庭がある。外の風の音が、ピアノの弱音の隙間に入り込む。完全に制御された空間では生まれない音がそこにあった。

イベントの運営費は約100万円。ピアノの運搬・調律費用だけで相当な割合を占める。資金はチケット収入と地元企業のスポンサーシップで賄われている。チケットは1枚3,000〜5,000円の価格帯で、座席数は体育館の広さから150〜200席程度に限られる。採算だけで見れば、決して余裕のある構造ではない。

それでもこの試みが続いている理由は、「場所を使い続けること」自体に意味があるからだろう。閉校した学校は、放置すれば老朽化が進む。しかし人が集まり、音が鳴り、空気が動く場所であり続ければ、建物は「廃校」ではなく「会場」になる。用途が変わることで、場所の時間が止まらずに済む。

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スクリーンの中から帰ってくる——西城秀樹フィルムコンサート

2018年に亡くなった西城秀樹のフィルムコンサートが、広島で初めて開催されることが決まった。

フィルムコンサートとは、過去のライブ映像を大型スクリーンに映し、音響をコンサート仕様で再生するイベントだ。本人はもういない。しかし映像と音は残っている。その記録を、CDやDVDの個人視聴ではなく、会場に人が集まって体験する形に戻す——これもまた「箱に音を入れる」行為のひとつだと言える。

西城秀樹は広島市出身。「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」をはじめとするヒット曲は、世代を超えて知られている。だが広島でのフィルムコンサートはこれまで実現していなかった。今回の開催決定に対し、チケットはすでに完売。地元ファンの反応の速さが、この企画が待たれていたことを物語る。

ここで少し立ち止まって考えたいのは、「故郷で聴く」ことの意味だ。同じ映像、同じ音源でも、それが東京の会場で流れるのと、広島の会場で流れるのとでは、受け取る側の文脈が変わる。客席にいるのは、同じ街で育った記憶を持つ人たちだ。スクリーンの中の声と、客席の記憶が重なる。場所が、音に文脈を与える。

イベントの収益の一部は、地域の子どもたちへの音楽教育支援に充てられる予定だという。過去の音楽が、未来の音楽を育てる資金になる。ここにも、ひとつの循環がある。

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三つの事例が重なるところ——「箱」が変わるのではなく、関係が変わる

採石場跡、廃校の体育館、フィルムコンサートの会場。三つの事例を並べてみると、共通する構造が浮かび上がる。

いずれも、「音楽専用に設計された空間」ではない。採石場は石を切り出すための場所であり、体育館は子どもたちが走り回るための場所であり、フィルムコンサートの会場はもともとライブ会場ですらない。音楽のために作られていない空間に、あえて音楽を入れる。そのとき、場所の物理的な構造は変わらない。変わるのは、人とその場所の関係だ。

岩壁は岩壁のまま、反響板になる。体育館は体育館のまま、コンサートホールになる。スクリーンはスクリーンのまま、ステージになる。「箱」を改装するのではなく、中に入れるものを変えることで、場所の意味が書き換わる。

もうひとつ共通するのは、いずれも「持続可能性」が自明ではないということだ。クラウドファンディングの300万円も、チケット収入の100万円も、来年また同じように集まる保証はない。ボランティアの体制も、毎回組み直す必要がある。制度化された仕組みというよりは、毎回「もう一度やろう」という意志で回っている段階にある。

だからこそ、これらの試みには記録する価値がある。制度になる前の、人の手で回っている時期の記録。仕組みが完成する前の、試行錯誤の過程。それ自体が、地域の文化がどう生まれるかを示すドキュメントになる。

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これは誰を楽にするか

最後に、ひとつだけ問いを置いておきたい。

これらの試みは、誰を楽にするのか。「地域活性化」「観光資源」「文化振興」——そうした大きな言葉で語ることはできる。だが、もう少し具体的に見たい。

採石場跡の音楽祭は、かつてそこで働いていた人たちに「この場所にはまだ意味がある」と感じさせる。廃校のピアノコンサートは、母校がなくなった卒業生に「建物はまだ生きている」と伝える。西城秀樹のフィルムコンサートは、もう会えない人の声を、同じ記憶を持つ人たちと一緒に聴く場を作る。

使われなくなった箱に音を入れる人たちが守っているのは、場所そのものではない。場所と人の間にある、まだ切れていない糸のほうだ。

音が鳴っている間、その糸は震えている。

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