95歳の同級生が初めて来た慰霊祭、80年前の詩人の随筆集——「記憶の届け方」に第三の担い手が現れている

証言者が減っていく。その事実は変えられない。けれど「届け手」は、思いもよらない場所から現れる。 2023年9月、山口県の岩国工業高校で行われた学徒動員慰霊祭。広島県の尾道で、古本屋の店主が一冊の随筆集を世に送り出した静かな仕事。この二つの

By Rei

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証言者が減っていく。その事実は変えられない。けれど「届け手」は、思いもよらない場所から現れる。

2023年9月、山口県の岩国工業高校で行われた学徒動員慰霊祭。広島県の尾道で、古本屋の店主が一冊の随筆集を世に送り出した静かな仕事。この二つの出来事は、一見つながりを持たない。だが並べてみると、同じ問いが浮かび上がる——「当事者がいなくなったあと、記憶は誰が届けるのか」。

95歳の同級生が、初めて慰霊祭に来た

岩国工業高校には、第二次世界大戦中の学徒動員で命を落とした生徒たちを悼む慰霊碑がある。毎年9月に行われる慰霊祭は、在校生と教職員が中心となって続けてきた行事だ。2023年、その場に95歳の卒業生が初めて姿を見せた。

「初めて」という言葉が、少し引っかかる。80年近く経って、なぜ今なのか。

戦後の日本で、戦争体験を語ることは長く複雑な感情を伴ってきた。生き残った側の罪悪感、語っても届かないという諦め、日常を立て直すことに精一杯だった時間——。慰霊祭の存在を知らなかったのではない。足を運ぶまでに、80年という時間が必要だったのだ。

報道によれば、この卒業生は「自分たちの経験を忘れないでほしい」と語った。短い言葉だが、ここには二つの層がある。「自分たちの経験」——つまり、亡くなった同級生だけでなく、生き残った自分自身の記憶も含めて届けたいという意志。そして「忘れないでほしい」——届け先が、自分の外側にいる誰かであるということ。95歳の身体でその場に立つこと自体が、言葉以上の証言になっていた。

慰霊祭を支えてきたのは、在校生と教職員、そして地域の関係者だ。当事者世代の参加は年々減少している。厚生労働省の統計では、2023年時点で戦後78年、学徒動員を経験した世代は90代半ば以上に限られる。全国の戦争体験証言者の活動可能人数は、この10年で急速に減少してきた。岩国工業の慰霊祭に95歳の卒業生が現れたことは、「最後の当事者」がまだここにいるという事実と、その時間がまもなく閉じるという現実を、同時に突きつけている。

古本屋の店主が編んだ、詩人の随筆集

場所を広島県尾道市に移す。

尾道の古本屋店主・藤井さんが、詩人・木下夕爾(きのした ゆうじ、1914–1965)の随筆集を編集・刊行した。木下夕爾は福山市出身の詩人で、『晩夏』『定本 木下夕爾詩集』などで知られるが、詩作以外の随筆や書簡はこれまでまとまった形で読める機会が少なかった。藤井さんは、古書店の仕事を通じて散逸していた随筆や、文士たちとの交流を記した文章を集め、一冊に編み直した。

藤井さんは研究者ではない。大学に所属する文学研究者でもなければ、木下夕爾の遺族でもない。古本屋として日々、本の流通と保存の現場に立つ人間だ。「古本屋はただの本を売る場所ではなく、記憶を伝える場所でもある」——藤井さんのこの言葉は、自分の仕事の再定義であると同時に、記憶の届け手が「当事者」と「研究者」の二択ではないことを示している。

木下夕爾の随筆には、戦前から戦後にかけての備後地方の風景、文学仲間との往来、日常の観察が淡く綴られている。直接的な戦争描写が中心ではない。しかし、ある時代を生きた人間の呼吸のリズムがそのまま残っている文章は、「あの時代に人はどう暮らしていたか」を伝える回路になる。証言とは違う。けれど、記憶の手触りがある。

藤井さんの編集作業は、地味な段取りの積み重ねだ。散逸した原稿の所在を確認し、掲載許諾を取り、初出誌を調べ、注釈をつける。一冊の本が形になるまでに、何人もの人の手と時間が噛み合っている。その仕組みそのものが、記憶を届ける装置になっている。

「第三の担い手」という回路

95歳の卒業生は当事者だ。しかし、慰霊祭という場を80年間維持してきたのは、当事者ではない在校生や教職員たちだった。藤井さんは、詩人本人とも遺族とも研究者とも異なる立場から、記憶を一冊の本に編み直した。

ここに共通する構造がある。記憶の伝達には、少なくとも三つの層が必要だということだ。

第一の層:当事者——体験を持つ人。証言の源泉。しかし、時間とともに必ず減る。

第二の層:研究者・制度——大学、博物館、行政のアーカイブ。記録を体系化し、保存する。ただし、アクセスの回路が限られることがある。論文や報告書は、届けたい相手に届くとは限らない。

第三の層:地域の編集者——古本屋の店主、慰霊祭を支える在校生、地域の語り部ボランティア、小さな出版活動を担う人々。当事者でも専門家でもないが、記憶と受け手のあいだに立ち、「届ける形」を整える人たち。

この第三の層を、ここでは「第三の担い手」と呼びたい。彼らの特徴は、記憶の「所有者」ではなく「編集者」であることだ。自分の体験を語るのではなく、誰かの記憶を、届く形に変換する。慰霊祭の段取りを組むこと、随筆集の注釈をつけること、展示のキャプションを書くこと——いずれも、記憶そのものではなく、記憶の届け方を設計する仕事だ。

2026年NPT再検討会議——「届け方」が問われる場

2026年に予定されている核拡散防止条約(NPT)再検討会議は、前回2022年の会議がロシアの反対で最終文書を採択できなかったことを受け、国際的な緊張の中で開かれる。広島市立大学大学院の大下講師は、「核兵器の問題は、単なる国際問題ではなく、個々の記憶と深く結びついている」と指摘する。

被爆者の平均年齢は2024年時点で85歳を超えた。広島市が認定する被爆体験伝承者は約180人(2023年度時点)だが、その多くは被爆者本人ではなく、証言を学び、代わりに語る「第三の担い手」だ。国際会議の場で、当事者の声がどのような形で届けられるか——そこには、証言の「原文」をどこまで残し、どのような文脈で伝えるかという編集の問題がある。

ここで注意したいのは、NPT再検討会議と岩国工業の慰霊祭、尾道の随筆集を安易に一直線でつなぐことの危うさだ。国際条約の交渉と、地域の小さな営みは、スケールも文脈も異なる。しかし、「当事者がいなくなったあとの届け方」という問いは、どちらにも共通して横たわっている。むしろ、地域の現場で試みられている「第三の担い手」の仕組みが、国際的な記憶の伝達にも示唆を与える可能性がある——そう考えるほうが、事実に対して誠実だろう。

仕組みが記憶を運ぶ

記憶の継承を「個人の頑張り」に依存させると、その人がいなくなった瞬間に途切れる。95歳の卒業生が語る言葉は、かけがえがない。だが、その言葉が届くためには、慰霊祭という場を毎年準備する仕組みが必要だった。藤井さんが随筆集を編めたのは、古書流通というネットワークと、出版という形式があったからだ。

個人の記憶は、仕組みの中に置かれて初めて「届くもの」になる。逆に言えば、仕組みがなければ、どれほど切実な記憶も、その人の内側にとどまったまま消えていく。

今後注目すべきは、こうした「第三の担い手」がどのように増え、どのように連携していくかだ。各地の慰霊祭の運営ノウハウは共有されているのか。古本屋や小出版社の編集活動は、図書館やアーカイブとどう接続しているのか。被爆体験伝承者の育成プログラムは、他の戦争記憶の継承にも応用できるのか。

問いは「記憶を持つ人がいなくなったらどうするか」ではない。「記憶を届ける仕組みを、今のうちにどう設計するか」だ。

95歳の卒業生が慰霊祭に初めて足を運んだこと。古本屋の店主が、散逸した随筆を一冊に編み直したこと。どちらも派手な出来事ではない。けれど、記憶が届く瞬間には、必ず誰かの地味な段取りがある。その段取りを担う人が「第三の担い手」であり、彼らの存在こそが、証言者のいない時代への備えになる。

記憶は、持つものではなく、届けるものだ——届け手がいる限り、記憶は生きている。

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