入市被爆者からウラン検出、NPT会議に学生8人派遣——「物質の記憶」と「人の言葉」、二つの回路が同時に動いている
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70年という時間が証明したもの
原爆が落ちた日、その場にいなかった人の体内に、ウランが残っていた——。
長崎大学の研究グループが2023年に発表した論文は、入市被爆者(原爆投下後に爆心地周辺に入った人々)の肺がん組織から、被爆由来と考えられるウランを検出したことを報告している。さらに注目されたのは、組織内に確認された「ブラックデスボール」と呼ばれる微小な放射性粒子の存在だ。直径わずか数マイクロメートル。肉眼では決して見えないその粒子が、70年以上にわたって人体の中に留まり続けていたことになる。
この研究が示すのは、直接被爆だけでなく、爆発後の残留放射線——いわゆる「黒い雨」や粉塵を通じた内部被曝が、物質レベルで人体に刻まれていたという事実だ。入市被爆者は長年、被爆者援護の枠組みの中でその被害の認定をめぐり困難を抱えてきた。「直接、爆風や熱線を浴びていない」という理由で、被爆の実態と制度の間にずれが生じてきた歴史がある。70年後に検出されたウランは、その「ずれ」に対する、物質が発した静かな反論のようにも見える。
ほぼ同じ時期、広島市から8人の学生が核兵器不拡散条約(NPT)再検討会議への派遣準備を進めていた。広島市が2013年から続けてきた「ヒロシマ・ピースグラント」や青少年派遣事業の流れを汲む取り組みで、被爆地の若い世代が国際会議の場に立ち、核兵器の非人道性を自らの言葉で伝える。
科学者が検出した「物質の記憶」と、学生たちが紡ごうとする「人の言葉」。角度はまったく違う。だが、どちらも同じ問いの前に立っている——被爆の事実を、どうすれば「次」に届けられるのか。
「デスボール」が語ること——制度と実態の隙間
少し、研究の中身に踏み込みたい。
長崎大学の七條和子准教授らのグループは、入市被爆者の肺がん組織を放射光マイクロビーム蛍光X線分析にかけ、ウランの存在を確認した。加えて、組織中に見つかった「ブラックデスボール」は、核分裂生成物やウランを含む高濃度の放射性微粒子であり、爆発時に生成され大気中に拡散したものが、呼吸を通じて体内に取り込まれたと考えられている。
ここで重要なのは、この被爆者が爆心地から直接被爆した人ではなく、投下後に市内に入った「入市被爆者」だという点だ。入市被爆者は約27万人とも推計されるが、初期放射線の直接照射を受けていないため、放射線影響の評価が難しく、被爆者健康手帳の交付や疾病認定において長年にわたり不利な立場に置かれてきた。2021年の「黒い雨」訴訟で広島高裁が原告全員を被爆者と認定した判決は記憶に新しいが、それでもなお、入市被爆者全体の被害認定が十分に進んでいるとは言いがたい。
ウラン検出という科学的事実は、この制度と実態の隙間に対して、一つの物証を差し出したことになる。被爆者の「体が痛い」「咳が止まらなかった」という訴えは、長い間、主観的な証言として扱われがちだった。そこに物質が——70年間、肺の組織の中で沈黙していた粒子が——「ここにいた」と応答した。この構造に、少し立ち止まりたくなる。
証言を裏づけるのが、証言者自身の体内に残された物質であるということ。人が語る言葉と、人の体が保持していた物質が、同じ事実の両面であるということ。科学的証拠の「重み」とは、単にデータの信頼性だけではなく、誰の、何を、どれだけの時間をかけて証明したのかという文脈の中にある。
学生8人がニューヨークに持っていくもの
NPT再検討会議は5年に一度、ニューヨークの国連本部で開催される。核兵器保有国と非保有国が核軍縮・核不拡散・原子力の平和利用の3本柱について議論する場であり、近年はロシア・ウクライナ情勢の影響もあって合意形成が極めて困難な状況が続いている。2022年の前回会議はロシアの反対で最終文書の採択に至らなかった。
そうした国際政治の厳しい現実の中に、広島から8人の学生が送り出される。彼らは現地でサイドイベントへの参加や各国代表との対話を通じて、被爆地のメッセージを届ける。派遣にあたって学生たちは事前研修を重ね、被爆者から直接話を聞き、広島の歴史と現在を学んだうえで渡航する。
派遣学生の一人はこう語っている。「被爆者の方に『あなたたちが私たちの続きをやってくれるんだね』と言われたとき、自分が何を背負おうとしているのか、初めて実感しました」。
この言葉の中に、本人もまだ十分には言語化できていない何かがある。「続き」という表現——それは単なるバトンタッチではなく、終わっていない出来事の延長線上に自分が立つという感覚だろう。被爆者にとって、被爆は「過去の出来事」ではなく、今も体の中に残り続けているものだ。ウラン検出の研究が示したのは、まさにその事実の物質的な裏づけでもある。
学生たちが国際会議の場で語る言葉は、外交交渉を直接動かすものではないかもしれない。しかし、「被爆地から来た若者が、自分の言葉で語っている」という事実そのものが、会議場の空気に一つの温度を加える。核軍縮の議論が数字と条文の応酬に閉じがちな場所で、人の声が入る回路を確保すること——それ自体が、仕組みとしての意味を持つ。
二つの回路が同時に動いている
振り返ると、この二つの出来事は偶然同じ時期に報じられたものであり、直接的な連携があるわけではない。長崎大学の研究チームと、広島市の学生派遣事業は、それぞれ別の文脈で動いている。
だが、少し距離を置いて眺めると、ここには一つの構造が見える。
被爆の記憶を「次」に届けるための回路が、二系統で同時に動いているということだ。一つは物質の回路——科学が、人体に残された痕跡を読み取り、データとして記録する。もう一つは言葉の回路——若い世代が、被爆者の経験を聞き取り、自分の言葉に変換して国際社会に届ける。
物質の回路は、時間が経っても変わらない。ウランは70年後も肺の中にあった。しかし、それを「読む」技術と「読もう」とする意志がなければ、物質は沈黙したままだ。言葉の回路は、逆に、時間とともに変わらざるを得ない。被爆者の高齢化が進み、直接証言できる人の数は年々減少している。広島市によれば、被爆者健康手帳を持つ人の平均年齢は85歳を超えた。証言の「一次情報」が失われていく中で、学生たちが担うのは、聞いた言葉を自分の身体を通して語り直すという、翻訳に近い作業だ。
この二つの回路は、互いを必要としている。科学的証拠だけでは、人は動かない。データは正確だが、それだけでは「なぜそれが問題なのか」という問いに答えられない。一方、言葉だけでは、時間の経過とともに「本当にそうだったのか」という疑念に耐えられなくなる。物質が言葉を支え、言葉が物質に意味を与える。この相補的な関係が、被爆の記憶を継承するという営みの、静かだが確かな骨格になっている。
今後、注視すべきこと
具体的に、いくつかの論点を挙げておきたい。
第一に、入市被爆者のウラン検出が、被爆者援護行政にどう反映されるか。研究成果が学術的に評価されることと、それが制度の見直しにつながることの間には、大きな距離がある。「黒い雨」訴訟の判決後も、被爆者認定の基準は依然として議論の途上にある。科学的知見が政策に翻訳されるプロセスそのものを、丁寧に追う必要がある。
第二に、NPT再検討会議の行方。核兵器禁止条約(TPNW)の発効後も、核保有国との溝は埋まっていない。学生たちの派遣が「一回きりのイベント」で終わらず、継続的な仕組みとして機能し続けるかどうか。広島市の派遣事業は10年以上の蓄積があるが、予算規模や参加者のフォローアップ体制など、持続可能性の面で課題も残る。
第三に、研究と教育の接続。ウラン検出の研究成果が、平和教育の現場にどう届くのか。学生たちが被爆者の証言だけでなく、最新の科学的知見も携えて国際会議に臨むことができれば、「証拠」と「言葉」の二つの回路は、一人の中で交差する。
被爆から80年が近づく中で、記憶の継承は「誰が語るか」だけでなく、「何が語るか」という問いにも広がっている。人の言葉が届かなくなる日が来ても、物質はそこにある。そして、物質が語れないことを、人が語る。
その二つが同時に動いている今という時間を、少し丁寧に見ておきたい。
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