宮島花火は2026年も不開催、岩国は2尺玉、尾道は住吉花火——瀬戸内の花火大会、続く町と止まる町の分岐点
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同じ瀬戸内の夜空の下で、明暗が分かれている
瀬戸内海に面した三つの町——宮島、岩国、尾道。いずれも水辺の町であり、夏になれば海の上に花火が弧を描く風景を持っていた。けれど2026年、その風景が揃うことはない。
宮島水中花火大会は、2019年を最後に途絶えたまま、2026年も不開催が決まった。一方で岩国港みなと祭花火大会は2尺玉を掲げて開催を予定し、尾道の住吉花火まつりも例年どおり準備が進む。
花火そのものの技術や美しさに差があるわけではない。問いは「誰が、どんな仕組みで、あの一夜を回しているか」にある。続く町と止まる町の間にあるのは、祭りの華やかさではなく——裏方の構造の違いだ。
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宮島——「島で開く」という制約が、限界を超えた
宮島水中花火大会は、1973年に始まり約半世紀にわたって続いた。世界遺産・厳島神社の大鳥居をシルエットに、海上から打ち上げられる水中花火は唯一無二の景観として知られ、ピーク時には一晩で約5万人が島に渡った。
しかし「島で開く」という条件が、運営の首を徐々に締めていった。
まず、アクセスの問題がある。宮島へ渡る手段はフェリーに限られる。大会終了後、数万人が一斉に桟橋へ向かう——その動線を安全に制御するには、島内各所に誘導員を配置し、乗船待機列を管理し、万一の将棋倒しや海中転落に備えた救護体制を敷く必要がある。廿日市市や広島県警、海上保安部、フェリー事業者、地元消防——関係機関の調整だけでも膨大な工数だ。
警備コストの高騰も深刻だった。全国的に、花火大会の警備費用はこの10年で大きく膨らんでいる。警備業界の人手不足と、2022年のソウル梨泰院事故以降に強まった群衆事故への社会的関心が重なり、1人あたりの単価も、必要人数の基準も上がった。島という閉鎖空間では「逃げ場の設計」がさらに求められるため、コストは平地開催の大会より構造的に高くなる。
そして、運営人材の断絶がある。2019年の開催を最後に、コロナ禍で3年以上の空白が生まれた。祭りの段取りは文書化しきれない——誰がどこに立ち、何時にどの判断をするか。その暗黙知を持つ人が現場を離れ、引き継ぎの機会がないまま時間が過ぎた。廿日市市は再開の可能性を完全には否定していないものの、「安全を担保できる体制が整わない限り再開は難しい」という姿勢を崩していない。
止まったのは花火ではない。花火を支えていた仕組みのほうだ。
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岩国——2尺玉を上げ続ける「港町の回路」
岩国港みなと祭花火大会は、2026年も開催を予定している。目玉は直径約480メートルに開く2尺玉。山口県東部の夏の風物詩として、毎年数万人を集める。
なぜ岩国は続けられるのか。一つには、会場が「港」であることの地理的優位がある。岩国港周辺は平地が広く、観客の分散と動線の確保が比較的容易だ。島のように出口が限られる構造ではなく、複数方向への退避経路を設計できる。警備計画の自由度が、宮島とは根本的に異なる。
もう一つは、地域の商工団体と行政の連携が長年にわたって維持されている点だ。岩国商工会議所を軸に、地元企業の協賛金、行政の補助、そしてボランティアの動員が毎年の「回路」として機能している。花火師の手配、警備会社との契約、交通規制の申請——こうした実務の蓄積が途切れていないことが、継続の土台になっている。
2尺玉は単なる演出ではない。「あの大きさの花火を上げられる町だ」という自負が、協賛を集める求心力にもなっている。花火の規模が、運営の仕組みを支え、仕組みが花火の規模を可能にする——その循環が回っている。
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尾道——住吉花火に宿る「祭りの文脈」
尾道の住吉花火まつりは、住吉神社の夏祭りに合わせて行われる奉納花火だ。起源は江戸時代にさかのぼるとされ、尾道水道を挟んで向島との間に花火が上がる。観客数は約3万人規模で、宮島や岩国と比べると小ぶりだが、町の暮らしとの距離が近い。
尾道が続けられている理由の一つは、この「祭りとしての文脈」が生きていることだろう。花火大会単体のイベントではなく、住吉神社の祭礼という宗教的・文化的な枠組みの中に位置づけられている。神社の氏子組織、地元商店街、漁協——それぞれが祭りの中に役割を持ち、花火はその一部として毎年繰り返される。
会場となる尾道水道沿いは、坂の町ならではの高低差があり、観客が自然と分散する地形的な利点もある。千光寺山の斜面から見下ろす人、海岸通りで見上げる人、向島側から眺める人——視点が多層的に分かれることで、一箇所への過度な集中が起きにくい。
また、尾道市は近年、観光客の増加に伴う交通対策や安全管理のノウハウを、しまなみ海道関連のイベント運営などを通じて蓄積してきた。花火大会だけでなく、年間を通じた観光マネジメントの中に花火の運営が組み込まれている点が、持続可能性を支えている。
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海の上の「見えない警備線」——広島海上保安部の取り組み
瀬戸内の花火大会には、陸上だけでなく海上の安全管理という固有の課題がある。広島海上保安部は、毎年夏の花火シーズンに合わせて海上での事故防止を呼びかけている。
花火を海上から観覧するプレジャーボートや漁船が増える中、「見張りの徹底」「救命胴衣の常時着用」「飲酒操船の禁止」が繰り返し発信されている。花火に見とれた瞬間に他船との距離を見失う——そうした事故は実際に起きうるものだ。
海上保安部は巡視艇を配置し、花火大会当日の海上交通規制を敷く。打ち上げ地点周辺の進入禁止区域の設定、アンカリング位置の指定、緊急時の退避ルートの確保——これらは観客の目には映らないが、花火が安全に上がるための前提条件だ。
この「見えない警備線」を維持するにも人と予算が要る。海上保安部の人員配置、地元漁協との調整、港湾管理者との協議。花火大会の裏には、陸と海の両方で複数の組織が噛み合う段取りがある。
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分岐点は「花火の質」ではなく「仕組みの厚み」
三つの町を並べてみると、花火大会の継続・不開催を分けているのは、花火そのものの魅力ではないことが見えてくる。
宮島は、世界遺産の景観と水中花火という圧倒的なコンテンツを持ちながら、島というアクセス制約と運営体制の断絶によって再開できずにいる。岩国は、港という地理的条件と商工団体を軸にした協賛・運営の回路が回り続けている。尾道は、神社の祭礼という文脈と、坂の町の地形、そして年間を通じた観光運営のノウハウが花火を下支えしている。
つまり、分岐点は「仕組みの厚み」にある。
花火大会は一夜のイベントに見えるが、その一夜を成立させるために、数ヶ月前から警備計画が組まれ、協賛金が集められ、ボランティアが声をかけ合い、海上保安部が巡視艇の配置を決め、交通規制の看板が刷られる。その一つひとつの段取りを担う人と組織のネットワークが「仕組み」であり、それが途切れたとき、花火は上がらなくなる。
コロナ禍の3年間は、多くの地域でこのネットワークに空白を生んだ。再開できた町は、空白の間も人のつながりを維持できた町だ。再開できなかった町は、仕組みの修復に必要なコストと時間が、現在の体制では賄えなかった町だ。どちらが良い悪いという話ではない。条件と構造の問題だ。
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これから問われるのは「誰を楽にする仕組みか」
花火大会の持続可能性を考えるとき、「どうすれば続けられるか」という問いの手前に、もう一つの問いがある。「この仕組みは誰を楽にしているか」だ。
運営者だけに負荷が集中する構造は、どこかで折れる。協賛企業が義務感だけで金を出し続ける構造も、長くは持たない。観客が「見るだけの人」であり続ける構造も、支える側の疲弊を招く。
岩国の商工団体が協賛を集められるのは、花火大会が地域経済に還元される実感があるからだろう。尾道の氏子組織が動くのは、祭りが自分たちの暮らしの一部だからだろう。仕組みが回るのは、関わる人それぞれにとって「これは自分ごとだ」と思える回路があるときだ。
宮島の花火が再び上がる日が来るとすれば、それは単に予算がついた日ではなく——島の安全を設計し直し、運営の担い手が「これなら回せる」と思える仕組みが組み上がった日だろう。
瀬戸内の夏の夜空に、三つの町の花火が揃う年を、少し気長に待ちたいと思う。
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JA
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