比治山ホール、放影研寮、被服支廠——広島の「戦後建築」が同時に動くとき、問われているのは建物ではない

三つの建物が、同じ季節に「次」を問われている 広島市内で、三つの戦後建築がほぼ同時期にそれぞれの岐路に立っている。前川國男が設計した比治山公会堂(通称・比治山ホール)が最後の一般公開を迎え、放射線影響研究所(放影研)の職員寮が約70年の歴

By Rei

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三つの建物が、同じ季節に「次」を問われている

広島市内で、三つの戦後建築がほぼ同時期にそれぞれの岐路に立っている。前川國男が設計した比治山公会堂(通称・比治山ホール)が最後の一般公開を迎え、放射線影響研究所(放影研)の職員寮が約70年の歴史に幕を下ろし、旧陸軍被服支廠では一般見学の実施が検討されている。

偶然だろうか——と最初は思った。だが三つを並べてみると、偶然では片づけられない共通の構造が浮かび上がる。「誰が持ち、誰が使い、誰が残すのか」。所有・維持・市民との距離という三つの軸で読み解くと、これは建物の問題ではなく、広島という都市が戦後の時間をどう引き受けるかという問いそのものだった。

比治山ホール——「設計者の名前」だけでは建物は残らない

比治山ホールは、戦後日本のモダニズム建築を牽引した前川國男の設計により1953年に竣工した。広島の復興期、文化活動の拠点として市民に開かれた場所だった。所有者は広島市。

2023年秋に行われた最後の一般公開には多くの市民が足を運んだ。しかし、保存に向けた具体的な計画は現時点で示されていない。建物の老朽化は進み、維持管理費だけでなく、本格的な改修となれば億単位の費用が見込まれる。市の財政の中で、この建物にどれだけの優先度を置けるのか——行政にとっては率直に難しい判断だろう。

ここで少し立ち止まりたいのは、「前川國男の建築だから残すべきだ」という語り方の危うさだ。設計者の名前は保存の理由にはなっても、保存の仕組みにはならない。建物を残すには、日常的に使う人がいること、維持費を負担する主体があること、そしてその建物が「ここにある意味」を更新し続ける回路が必要になる。比治山ホールに今欠けているのは、価値の認知ではなく、価値を支える仕組みのほうだ。

市民からの保存要望は確かにある。だが要望と仕組みの間には距離がある。その距離を埋めるのが本来は行政の役割だが、具体的な保存スキーム——たとえば民間との共同運営や、文化財指定による補助金の活用——が議論の俎上に載っていないのが現状だ。

放影研職員寮——「研究を支えた暮らし」が消えるとき

放影研の職員寮は、原爆の放射線影響を研究する機関の職員たちが日々を過ごした場所だった。前身のABCC(原爆傷害調査委員会)時代から数えれば、約70年。比治山の丘の上に建つその寮は、広島の戦後史のなかで独特の位置を占めてきた。

放影研は2025年度に広島大学霞キャンパス近くへの移転を予定しており、それに伴い職員寮も閉館となる。所有者は放影研(日米共同出資の公益財団法人)であり、広島市や広島県が直接関与する建物ではない。ここに、比治山ホールとは異なる構造上の難しさがある。市民が「残してほしい」と声を上げても、所有と意思決定の主体が異なるのだ。

寮の建物自体は、建築史的に特筆すべき意匠があるわけではない。しかし、ここで暮らした研究者たちの記憶——被爆者の健康調査に携わりながら、広島の街で日常を営んだ人々の時間——は、建物とともにしか残せない種類のものだ。移転後の跡地利用について、放影研側は具体的な方針を明らかにしていない。記録の保存、建物の一部保存、あるいは記憶を継承する何らかの仕掛け——選択肢はあるはずだが、議論が始まっている気配は薄い。

「感傷的な声が多い」という言い方をすることもできる。だが、感傷を仕組みに変えられるかどうかが、ここでは問われている。

旧陸軍被服支廠——「開く」ことで初めて生まれる関係

三つのなかで最も大きく、最も古い。旧陸軍被服支廠は1913年に建てられた赤煉瓦の倉庫群で、爆心地から約2.7キロメートルの位置にある被爆建物だ。現存する被爆建物としては最大級の規模を持つ。所有は広島県(一部は国・民間)。

長らく「保存か解体か」の議論が続いてきたが、2020年に広島県が保存・活用の方針を決定。現在は耐震補強を含む安全対策工事が進められている。そしてここにきて、工事期間中の一般見学の実施が検討されているという動きが出てきた。県は、工事で取り外す屋根瓦の一部を市民に配布することも視野に入れているとされる。

注目したいのは、この「開く」という判断の意味だ。被服支廠はこれまで、安全上の理由から一般の立ち入りが制限されてきた。市民にとっては「知っているけれど入れない建物」だった。見学が実現すれば、市民と建物の間にようやく直接的な接点が生まれる。瓦の配布という一見ささやかな施策も、建物の一部を市民が「持つ」という行為を通じて、関係性をつくる仕掛けになりうる。

被服支廠の場合、所有者である県が保存の意思を示し、国の重要文化財としての位置づけもある。比治山ホールや放影研寮と比べれば、制度的な裏付けは最も整っている。だが、制度だけでは建物は「生きない」。使われ、訪れられ、語られることで初めて、建物は都市の記憶装置として機能する。一般見学の検討は、その回路を開く最初の一歩だ。

三つを並べて見えるもの——「所有」「維持」「距離」の構造

ここで三つの建物を、所有者・維持の仕組み・市民との距離という三軸で整理してみる。

比治山ホール——所有者は広島市。維持費の負担主体は明確だが、活用の仕組みがない。市民の関心はあるが、関与の回路が設計されていない。

放影研職員寮——所有者は放影研(日米共同出資)。市民や自治体が直接介入しにくい構造。記憶の継承という課題はあるが、担い手が不在。

旧陸軍被服支廠——所有者は広島県(一部国・民間)。文化財指定と県の保存方針により制度的基盤がある。一般見学の検討で市民との距離を縮めようとしている段階。

三つに共通するのは、「建物の価値」は認識されているのに、「建物を支える関係性」が十分に構築されていないという点だ。価値があるから残す——その論理は正しいが、それだけでは建物は残らない。残すためには、維持費を誰がどう負担するか、日常的に誰がどう関わるか、そしてその建物が「今の広島」にとって何を意味するかを、繰り返し問い直す仕組みが要る。

「同時に動く」ことの意味

これら三つが偶然同じ時期に岐路を迎えていることには、偶然以上の背景がある。戦後約80年。建物の物理的な寿命、管理する組織の体制変化、そして世代交代による記憶の薄れ——これらが同時に臨界点を迎えている。

広島は「記憶の都市」として世界に知られている。しかし、記憶は放っておけば残るものではない。記憶を支えてきた物理的な構造物が、いま一斉にその限界を迎えつつある。これは広島だけの問題ではないが、広島だからこそ、その選択は重い意味を持つ。

今後注視すべきは、それぞれの建物に対して「誰が、どんな仕組みで関わるか」という具体的な設計だ。市民の声は出発点にはなるが、ゴールにはならない。声を受け止め、制度に変換し、持続可能な運営に落とし込む——その中間の作業こそが、いま最も不足しているものだろう。

比治山ホールの静かなホワイエ、放影研寮の廊下に差す西日、被服支廠の赤煉瓦に残る熱の記憶。建物は黙っているが、問いかけてはいる——この街は、自分の時間をどう持ち続けるつもりなのか、と。

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